「はなしの話」の話

岡本綺堂という人は、相当の知識人だったようです。漢詩、英語に精通し、本の虫。文筆の素養があり、江戸の知識もピカイチ。
そういった知識基盤があったからこそ小説『半七捕物帳』や戯曲『修善寺物語』『番町皿屋敷』などが生まれたと言われています。
いっぽうで、綺堂はルーティンワークとして日記を書き続け、雑記帳やおぼえ帳なども大量に書き記していたといいます。(それらの原本は関東大震災で失われています。)

そこで本日は、綺堂の随筆からご紹介。

「はなしの話」(昭和27年7月24~27日「報知新聞」)

なぜこれを紹介するのか。ただ個人的に好きだからという理由以外にありませんが、
綺堂という人を素直に「この人いいなぁ~」と想う一編。

「はなしの話」は綺堂の歯についての話です。
歯をめぐり、過去の思い出や出会った人々も想い起こされます。
途中の歯が痛むようすとそこでの風景描写はなんとも言い難い、良さ。
そして『半七捕物帳』で感じられる人情感がこの短い随筆にも現れます。ここでは歯への人情です。いや、歯情です。
ほかの随筆でも垣間見えますが、綺堂にはさまざまなものに情があるのでは、と私は思います。
植物への情、風呂への情。庭に迷い込んだ蟹への情。「過ぎゆくものの愛惜の情」*。

『半七半八(はんしちきどり)』も、そんな綺堂のもつ情へのリスペクトがこもっています。
そして、いまを生きるわれわれの情とはなんぞやと、稽古を見ながらぼんやりと思うのです。

*千葉俊二編『岡本綺堂随筆集』解説より

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー「はなしの話」の話 東 彩織 2017.9.23

「はなしの話」 岡本綺堂

 七月四日、アメリカ合衆国の独立記念日、それとは何の関係もなしに、左の上の奥歯二枚が俄(にわか)に痛み出した。歯の悪いのは年来のことであるが、今度もかなりに痛む。おまけに六日は三十四度という大暑、それやこれやに悩まされて、ひどく弱った。
 九日は帝国芸術院会員が初度の顔合せというので、私も文相からの案内を受けて、一旦(いったん)は出席の返事を出しておきながら、更にそれを取消して、当夜はついに失礼することになった。歯はいよいよ痛んで、ゆるぎ出して、十一日には二枚ながら抜けてしまった。
 私の母は歯が丈夫で、七十七歳で世を終るまで一枚も欠損せず、硬い煎餅(せんべい)でも何でもバリバリと齧(かじ)った。それと反対に、父は歯が悪かった。ややもすれば歯痛に苦くるしめられて、上下に幾枚の義歯を嵌(は)め込んでいた。その義歯は柘植(つげ)の木で作られていたように記憶している。私は父の系統をひいて、子供の時から齲歯(むしば)の患者であった。
 思えば六十余年の間、私はむし歯のために如何ばかり苦められたかわからない。むし歯は自然に抜けたのもあり、医師の手によって抜かれたのもあり、年々に脱落して、現在あます所は上歯二枚と下歯六枚、他はことごとく入歯である。その上歯二枚が一度に抜けたのであるから、上頤(うわあご)は完全に歯なしとなって、総入歯のほかはない。
 世に総入歯の人はいくらもある。現にわたしの親戚知人のうちにも幾人かを見出すのであるが、たとい一枚でも二枚でも自分の生歯があって、それに義歯を取つけている中(うち)は、いささか気丈夫であるが、それがことごとく失われたとなると、一種の寂寥を覚えずにはいられない。大きくいえば、部下全滅の将軍と同様の感がある。
 馬琴も歯が悪かった。『八犬伝』の終りに記されたのによると「逆上口痛の患ひ起りしより、年五十に至りては、歯はみな年々にぬけて一枚もあらずなりぬ」とある。馬琴はその原因を読書執筆の過労に帰しているが、単に過労のためばかりでなく、生来が歯質の弱い人であったものと察せられる。五十にして総入歯になった江戸時代の文豪にくらべれば、私などはまだ仕合せの方であるかも知れないと、心ひそかに慰めるの外はない。殊(こと)に江戸時代と違って、歯科の技術も大いに進歩している今日に生れ合せたのは、更に仕合せであると思わなければならない。それにしても、前にいう通り、一種寂寥の感は消えない。
 私をさんざん苦めた後に、だんだんに私を見捨てて行く上歯と下歯の数々、その脱落の歴史については、また数々の思い出がある。それを一々語ってもいられず、聞いてくれる人もあるまいが、そのなかで最も深く私の記憶に残っているのは、奥歯の上一枚と下一枚の抜け落ちた時である。いずれも右であった。
 北支事変の風雲急なる折柄、殊にその記憶がまざまざと甦(よみがえ)って来るのである。
 
 明治三十七年、日露戦争の当時、わたしは従軍新聞記者として満洲の戦地へ派遣されていた。遼陽陥落の後、私たちの一行六人は北門外の大紙房(ターシーファン)という村に移って、劉という家の一室に止宿(ししゅく)していたが、一室といっても別棟の広い建物で、満洲普通の農家ではあるが、比較的清浄に出来ているので、私たちは喜んでそこに一月ほどを送った。
 先年の震災で当時の陣中日記を焼失してしまったので、正確にその日をいい得ないが、なんでも九月の二十日前後とおぼえている。四十歳ぐらいの主人がにこにこしながら這入(はい)って来て、今夜は中秋であるから皆さんを招待したいという。私たちは勿論承知して、今夜の宴に招かれることになった。
 山中ばかりでなく、陣中にも暦日がない。まして陰暦の中秋などは我々の関知する所でなかったが、二、三日前から宿の雇人らが遼陽城内へしばしば買物に出てゆく。それが中秋の月を祭る用意であることを知って、もう十五夜が来るのかと私たちも初めて気がついた。それがいよいよ今夜となって、私たちはその御馳走に呼ばれたのである。ここの家は家族五人のほかに雇人六人も使っていて、先(ま)ず相当の農家であるらしいので、今夜は定めて御馳走があるだろうなどと、私たちはすこぶる嬉しがって、日の暮れるのを待ち構えていた。
 きょうは朝から快晴で、満洲の空は高く澄んでいる。まことに申分のない中秋である。午後六時を過ぎた頃に、明月が東の空に大きく昇った。ここらの月は銀色でなく、銅色である。それは大陸の空気が澄んでいるためであると説明する人もあったが、うそか本当か判らない。いずれにしても、銀盤とか玉盤とか形容するよりも、銅盤とか銅鏡とかいう方が当っているらしい。それが高く濶(ひろ)い碧空(あおぞら)に大きく輝いているのである。
 この家の主人夫婦、男の児(こ)、女の児、主人の弟、そのほかに幾人の雇人らが袖をつらねて門前に出た。彼らは形を正して、その月を拝していた。それから私たちを母屋へ招じ入れて、中秋の宴を開くことになったが、案の如くに種々の御馳走が出た。豚、羊、鶏、魚、野菜のたぐい、あわせて十種ほどの鉢や皿が順々に運び出されて、私たちは大いに満腹した。そうしてお世辞半分に「好々的(ホーホーデー)」などと叫んだ。
 宴会は八時半頃に終って、私たちは愉快にこの席を辞して去った。中には酩酊して、自分たちの室へ帰ると直(す)ぐに高鼾(たかいびき)で寝てしまった者もあった。あるいは満腹だから少し散歩して来るという者もあった。私も容易に眠られなかった。それは満腹のためばかりでなく、右の奥の下歯が俄に痛み出したのである。久し振りで種々の御馳走にあずかって、いわゆる餓虎の肉を争うが如く、遠慮もお辞儀もなしに貪(むさぼ)り食らった祟(たた)りが忽(たちま)ちにあらわれ来ったものと知られたが、軍医部は少し離れているので、薬をもらいに行くことも出来ない。持合せの宝丹を塗ったぐらいでは間に合わない。私はアンペラの敷物の上にころがって苦しんだ。
 歯はいよいよ痛む。いっそ夜風に吹かれたら好いかも知れないと思って、私はよほど腫(は)れて来たらしい右の頬をおさえながら、どこを的ともなしに門外まで迷い出ると、月の色はますます明るく、門前の小川の水はきらきらと輝いて、堤の柳の葉は霜をおびたように白く光っていた。
 わたしは夜なかまでそこらを歩きまわって、二度も歩哨(ほしょう)の兵士にとがめられた。宿へ帰って、午前三時頃から疲れて眠って、あくる朝の六時頃、洗面器を裏手の畑へ持ち出して、寝足らない顔を洗っていると、昨夜来わたしを苦しめていた下歯一枚がぽろりと抜け落ちた。私は直ぐにそれを摘(つま)んで白菜(パイサイ)の畑のなかに投げ込んだ。そうして、ほっとしたように見あげると、今朝の空も紺青に高く晴れていた。
 もう一つの思い出は、右の奥の上歯一枚である。
 大正八年八月、わたしが欧洲から帰航の途中、三日ばかりは例のモンスーンに悩まされて、かなり難儀の航海をつづけた後、風雨もすっかり収まって、明日はインドのコロムボに着くという日の午後である。
 私はモンスーン以来痛みつづけていた右の奥歯のことを忘れたように、熱田丸の甲板を愉快に歩いていた。船医の治療を受けて、きょうの午頃から歯の痛みも全く去ったからである。食堂の午飯も今日は旨く食べられた。暑いのは印度洋であるから仕方がない。それでも空は青々と晴れて、海の風がそよそよと吹いて来る。暑さに茹(ゆだ)って昼寝でもしているのか、甲板に散歩の人影も多くない。
 モンスーンが去ったのと歯の痛みが去ったのと、あしたは印度へ着くという楽しみとで、私は何か大きい声で歌いたいような心持で、甲板をしばらく横行濶歩していると、偶然に右の奥の上歯が揺ぐように感じた。今朝まで痛みつづけた歯である。指で摘んで軽く揺すってみると、案外に安々と抜けた。
 なぜか知らないが、その時の私はひどく感傷的になった。何十年の間、甘い物も食った。まずい物も食った。八百善の料理も食った。家台店のおでんも食った。その色々の思い出がこの歯一枚をめぐって、廻り灯籠のように私の頭のなかに閃(ひらめ)いて通った。
 私はその歯を把(と)って海へ投げ込んだ時、あたかも二尾の大きい鱶(ふか)が蒼黒い脊をあらわして、船を追うように近づいて来た。私の歯はこの魚腹に葬られるかと見ていると、鱶はこんな物を呑むべくあまりに大きい口をあいて、厨から投げあたえる食い残りの魚肉を猟(あさ)っていた。私の歯はそのまま千尋の底へ沈んで行ったらしい。わたしはまだ暮れ切らない大洋の浪のうねりを眺めながら、暫(しばら)くそこに立尽していた。
 前の下歯と後の上歯と、いずれもそれが異郷の出来事であったために、記憶に深く刻まれているのであろうが、こういう思い出はとかくにさびしい。残る下歯六枚については、あまり多くの思い出を作りたくないものである。
                                     (昭和十二年七月)

底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
   2007(平成19)年10月16日第1刷発行
   2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「思ひ出草」相模書房
   1937(昭和12)年10月初版発行
初出:「報知新聞」
   1937(昭和12)年7月24~27日
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年11月29日作成
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