演劇は今日もぶっとくグルーヴする

 

−子どもたちは作品にとって「不確定要素」とか「ノイズ」ということですが、それは演劇にとって「豊かになる」とか「太くなる」要素にもなるということなのでしょうか?

中野:劇団のオンラインミーティングをやった時に、「完成度が低くなるかもしれないけども、その分ぶっとくなるぞ」って言ったんですけど、そうなんでしょうね。その時は「太く」っていう感覚的な言い回しをしたんだけれど、すごくグルーヴが太くなるとか音の鳴りが厚くなる、って感じ。

−世間的に進みつつある観客の側のアクセシビリティ(劇場などに行きにくい、作品を鑑賞しにくい人たちへの配慮や工夫)ではなく、まずは劇団員を優先した試みということですか?

中野:何かその多分ね、アクセシビリティとかそこまで大きな社会的な意義みたいなものにまで手を伸ばしきれてはいない気が今はまだしていて、本当に単純なことなんですよね。例えば野島が稽古場に来るには娘を連れてこなきゃいけなくて、演劇っていうジャンルとか分野では、子どもがそこにいても意外とできちうゃんじゃないかな? っていうなんか直感のようなものがあっただけなんですよね。
だから、これがもし僕がクラシックの楽団の団長だったら、「やっぱりちょっと子どもがリハーサルの時にいちゃダメだよ。気持ちはわかるけど、そういう子どもがいくら泣いてもいいゼロ歳からのコンサートみたいなのは必ず開くから、リハーサルの時はやっぱ子どもをちょっと、どこかに預けといてくれないか」ってなったかもしれない。けど演劇ならできんじゃねえか、稽古の時に泣いても平気だろうっていう。
2013年のF/Tで大谷能生さんたちと「つくりかたファンク・バンド」っていうのをやった時に、ファンクバンドのコーラスの人が子ども連れてコーラスやってたという話を聞いたんだけど、自分たちにもそういう絵が浮かんで、演劇っていうジャンル、特にナカフラのやり口から考えると、子どもいてもいいかもしんない、できるかもしれないと思ったんですよね。

−子どもたちも、ナカフラの演劇に影響を与えている?

中野:僕個人の感覚かもしれないけれども、今回のように子どもを稽古へ連れていけば、稽古場で子どもの話を当たり前にできる。でも、昔はそれにどっか引け目みたいなものを感じてたんですよね。「ホントごめん、なんかこれはプライベートなことなんだけど」なんて前置きして、やっぱり子どものことは稽古の場で喋ることじゃないだろ、みたいなね。
それから、たとえ稽古場に子どもを連れていった時に、息子が15分ぐらいで照れちゃって「帰りたい、やだやだ」みたいになっちゃった時に「ちょっと自宅に送ってくるわ」って、自転車で往復20分ぐらいなんだけど、昔だったらその20分が自分の中で許せない20分になっちゃってたんですよね。
「俺は演出でその場を回してかなきゃいけないんだから、俺が20分も抜けるって絶対ダメなんだ」と自分を責めていたと思うんだけども、でも今回は二つの指針を設けたんです。
①日常生活を維持しながら無理なく参加できる
②あるいは、積極的に不参加できる
こういうシステムにしたから、「子どもが帰るって言ってるから抜けるよ」ってのが当たり前になった。で、子どもが稽古場では照れてたけど家に帰ったら「アイアイ(佐々木愛)と喋ったよ!」なんて得意げに話してんだよ、みたいな話題を戻ってみんなに話せることで、自分は本当に楽になった。
子どもが生まれてから、なんで「稽古場では子どものことを喋らない」なんて規制を自分の中でかけて、自分を苦しめていたのかが今となってはわからないんだけれど。でも、今回は子どものことも喋っていい。だって、子どもも不確定要素だけどパフォーマンスに立ち会う人たちなんだから、それについて言及するのはまったくおかしなことじゃないんだ、って気持ちがうまれて、すっごく楽になった。

(稽古風景)

−お子さんたちは、作品にはどんな形で参加するんですか?

中野:そうそう。ふくちゃん(福田毅)にキャスト名に子どもも入れるのかって訊かれて、みんなで話した時には、確かに子どもは出演者ではないのかもな、パフォーマーではなくパフォーマーの子どもがそこにいるっていういうだけのことだから、出演者には名前入れなくてもいいのかなってことになった。でも子どもは大切な要素であるならば出演者と言えるのかな? という辺りもみんなでもっと話さなくちゃならないんでしょうね。

−やはり、演劇に対しての考え方が変わってきたのは、熊谷さんの影響もありますか?

中野:急な坂スタジオの企画で動物園でやらせてもらえたり、F/Tで街歩きみたいなのやらせてもらえたりというのもありましたけど、熊谷が入ってから、さらにあっちこっちで、児童館とか商店街とかでできるよみたいなのがあって。野外でやるだけで完成度って求められなくなっちゃうんだけど、それはそれでおもしろいなと感じられたんですよね。
野外でも最初のころはマイクでセリフをしっかり拾ったり、野外のノイズがうるさければ芝居のテンポを速めて「ノイズをかき消せ!」みたいな指示を出したりしてたんですけど、ノイズがあったらセリフは言わないでノイズを聞く、みたいな方が野外でやるのに適してるなっていう発見があったんですよね。そういうものも受け止められるんだな演劇って、気がしたんですよ。

ただ、そういう時期もノイズをなくせる劇場でやる方がメインだったから、そこでは完成度を目指していたんだけれど、そういうのとも違うおもしろい演劇があるなと知ったという感じですかね。
だから「このセリフは絶対に聞かせなきゃダメなんだ」とかっていうセリフは俺の中では今はもう存在しないんだな、ってあらためて思いました。劇作家だったら絶対このセリフを聞かせなきゃダメとか、この趣向は成立させなきゃダメとかっていうのがあるけども、自分の中じゃ昔はあったのかもしれないけども、少しずつ自分の作るべきもの目指すべきものを問うてきた中で、今は別に絶対に聞かせなきゃいけないセリフはないと思えてる。それよりも、ちゃんとファンクしてればいい、ちょっとくらいコードを間違えたって構わないから。

−完成度を上げることを目指さないというのは「発表会」とは違うんですか?

中野:(間髪入れず)違いますね。習ったことを上手く発表するという「発表会」とは違う。形式だけでなく、必ずや世界や現代を掬いとらねばならないという使命においても異なります。

−それはどういうことですか?

中野:よく学生に「エンターテインメント」と「アート」の違いの話をすることがあって、「エンターテインメント」は「エンターテイン」だから「おもてなし」なわけです。お客さまが楽しい気持ちになるのがそこでは一番だから、楽しくなってそれにお金を払うのだし、別にそれはそれでいいことだと思う。お客さんの写真を撮るなら、エンタメは言われなくても美白加工してあげるし、目も大きくしてあげるし、アゴのラインもシュッとして差し上げる。
一方で、「アート」はラテン語の「アルス」そしてギリシャ語の「テクネ―」つまり技術で、何の技術かというと「自然を模倣する技術」なわけです。ハムレットにあるように「演劇は自然に向かって鏡を掲げること」なので、お客さんに鏡をバーンと向けて、シミができてても太ってても「これがあなたです」って見せるのがアート。いろんな加工してあげるエンターテインメントとは別物なわけです。
とはいえ、演劇って目の前に生身のお客さんがいるから「アート」だっていっても「もてなしたい」って気持ちは芽生えちゃうし、優れたエンタメは必ずアートの要素を持っていて、そんな切り分けられるもんじゃないんだけれど、最終的な目的としてどっちを選ぶかってことが大切だと思う。エンターテインメントを観るのは好きだけど、自然を模倣し、どんなに醜くても「あなたの住んでいる世界の現状はこんな姿です」と見せつける演劇を僕は目指し続けたいんです。

−でもそれは、社会的意義というのとは違うんですよね。

中野:いや本当に俺、「社会」ってのが苦手なんですよね。「アーツマネジメント」なんて言葉が出はじめたときに「社会の中にどう演劇を位置づけるか」みたいな議論があって、熊谷が「しゃらくせえ、社会の中に埋めこめるもんじゃなくて、演劇は社会と対等にあるもんだ」と啖呵を切ったのが、とても腑に落ちて。社会の中での意味とかじゃなくて、社会があってその横に同じ大きさの演劇がある、だから両方やればいいじゃん、って。

−たしかにそれはぶっとい。まさしく、それって今回の試みですよね。でも、どのように書けばいいか難しいな……

中野:(身を乗り出して)音楽に例えると野島さんもわかるかな。
子どもっていうから今回わかりづらくなっちゃってる部分もあるんだろうけれども、たとえばさ、「そばにトランペットふける人とトロンボーンふける人とサックスふける人がいたんだよね。オレたちギターバンドだったけどさ、トランペットとトロンボーンとサックスふける人がいるならさ、ホーンズ入れてみない? 今までのシンプルなロックサウンドじゃなくなってっちゃうかもしれないけれど、ホーンズ入れると幅広がりそうじゃない? だから、トランペットとトロンボーンとサックスと一緒にやってみようよ」ていう。

−……んー、それだとお客さんはぜんっぜん、わかんないでしょうね

野島:そうですよねぇ……

中野:この、完璧なたとえ話、最もわかりやすいたとえ話でもわかんない? ああ、水渕もあっちで苦笑いしてますけども。
ただね、今回やってつまんなかったら、僕らは劇場に戻ってまた完成度を目指すと思います。「ムリだ、子ども連れて芝居は。野島、子ども預けろ!」とか「稽古は最低35日 出ろ!」とか。いっそ「やったけどつまんなかった」ってなっていいと思うんだよ。子ども連れてやるとか、病気のままやるってのは俺らの義務じゃないんだから。社会も大事だけど、ただの演劇だって大事だよっていうスタンスかな。

−いやいや、必ずやおもしろくなるとは思いますよ、ねえ野島さん

野島:子どもを連れていく身としては、子どもがノイズにならずに、いや、ノイズになることも楽しいとか作品の一部となるということは、頭では理解してるんだけれども、やっぱりつまんなくなっちゃうんじゃないの? みたいな不安はありました。でも、中野さんが稽古で「行ける」「作品として許せるラインは超えられる」ってGO出したとき、あったじゃないですか?

中野:あったね。

野島:あの、中野さんが「これ、おもしろいぞ」って言ったのを信じてますので、大丈夫だと思います!!

−初代リーダーからはとても心強い言葉をいただきましたけど、お子さんがいない方たちも大丈夫そうですか?

中野:それはね、ともすれば「子育てチーム」の息抜きみたいなのに付き合わせちゃうとしたら申し訳ないので、そんなことにはしないし、必ず演劇の作品として成立させるからってミーティングで話したんです。ただ、「もしかすると君たちが今までやってきたお芝居のような、役をつくってセリフを言って物語を進めていくという満足感は無いかもしれないよ」とも話しました。
だから、今はおもしろがってくれてるけれど、この先この路線が何本か続いたら、だれかが「つまんないんで辞めます」って言ってくる可能性はあるかもな……
いや、普通の芝居は他の人がたくさんやってくれてるから、そっち出ればいいんだから、大丈夫だな! そういうのは任せた!

 

誰が宛先なのかわからない言いっぱなしで終わったのだが、きっと今回の挑戦にかなりの手ごたえを覚えているからに違いない、そう思わせてくれる力強さがあった。
わたしたちが愛してやまない、ナカフラが帰ってきた。


 

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鈴木励滋(すずきれいじ)

生活介護事業所カプカプ所長・演劇ライター
1973年3月群馬県高崎市生まれ。97年から現職を務め、演劇に関しては『埼玉アーツシアター通信』『げきぴあ』劇団ハイバイのツアーパンフレットなどに書いている。『生きるための試行 エイブル ・アートの実験』(フィルムアート社、2010年)にも寄稿。師匠の栗原彬(政治社会学)との対談が『ソーシャルアート 障害のある人とアートで社会を変える』(学芸出版社、2016年)に掲載された。


一般社団法人なかふら/中野成樹+フランケンズ

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